鏡のひとりごと

黒担eighterの気の狂った叙情文

リボルバー感想2


 
 キャラクターそれぞれについてツラツラと。個人的にはやっぱりフィンセントとテオのゴッホ兄弟が好きですが、兄とは友達にはなりたくないですし弟とは兄の話しをしたくないです。冴が美術館案内してくれるツアーがあったら行きたい。
 
 
 フィンセント
 感情の起伏が激しすぎて自分で自分を持て余してるメンヘラ。弟のことを愛してるのもポールのことを尊敬しているのも真実なんだろうけど、それ以上にタブローしかない。タブローの国の王様ってポールに言われてたけど、マジでそうなんだと思う。彼にはタブローしかない。絵を描くこと以外全てが些事になってしまうその情熱には同じ画家ですらついていけない。アルルで、自炊してないし外食もしてない。パンとコーヒー、あと知り合いの女将さんを描いてやってそのお礼に残り物貰ってるって、コイツまじか? ってポールが引いてるのもちょっと分かる。食べる間も寝る前も惜しんで週一ペースで絵を送ってる。描くこと以外頭にない。
 とはいえ気難しいかと言われたらそんなことも無い人物像。浮世絵に憧れて「日本は陽が沈まない!」って思い込むし(沈むよ)。初めてポールに会った時には「一番高いお酒を」とか言う。なんかもう愛しい。人間くさいし可愛いんだけどめちゃくちゃ迷惑。その高い酒の代金は誰が払うと思ってんだ。
 悲劇の天才とか孤独の画家とか、猟奇的なエピソードもそうだけど人類の好みからそう言われてるだけで、実はこんな人間だったんじゃないかなと思わされる。親戚で集まると一人くらいはいる何してるか分からん奴。あの時代のフィンセントは多分そんな扱い。舞台にいるのは偉人ではなく、もがき続けた無名の画家でしかない。
 あと絵画療法をほんの少し齧った人間から見ても、フィンセントの絵は常人が理性の下に描いた絵だと思う。あのひまわりも、星月夜も、彼は極めて冷静に理性的に描いている。彼は狂気の天才なんかでは無くて、ただちょっとばかし好きなことに熱狂的で、たった一人の弟に認められたいと暴走して、同志と認めた人に離れられて暴走してしまう一人の人間として描かれていた。あと歌がうめぇ(それは安田章大)(さくらんぼの歌がうめぇ)
 いやもう本当にずっと可哀想で仕方ない。誰か絵を買ってやれよ……私が買ってやりたい……あと君将来めちゃくちゃ有名になれるからこんなところで死ぬなよ、と思いましたが彼はラストにちゃんと死にました! 何でや。
 死後、彼を悼んでリボルバーをオークションに載せた三人の気持ちもフィンセントには届かないんだよ……だって死んでんだもん。何でや。
 ところでこれサビなんだけど、三回目のカテコでスタオベ見たヤスくんの瞳が見るからにパァって輝いたの最高だった。演劇って最高だなと思った瞬間です。


 ポール
 正直ずうっといけ好かない。個人的にいけ好かないだけなんだけど、なんて言うか普通の人だと思う。パリ一番の画廊支配人のテオに近づきたいのは当たり前だし、依存感が強い年下の友人にうんざりするのも当たり前。行き掛けの駄賃みたいに余計なことを当てこすったとしても、まさか耳切られるとは思わないだろうし……いやお前フィンセントがどんだけ病んでたか知ってんだろ「ひまわりを描いてくれ」って言ってた夜辺りから加速してんぞヤバさが。
 ただアルル生活が破綻したのはフィンセントの所為だけではないだろう(贔屓目)。フィンセントの言うように「倦怠期の夫婦」みたい。ポールは気さくで距離感が近い(ベッドに座らせたり)のに、逆にフィンセントはイラついてる時は近づこうとしないのが面白い。
 あとポールはフィンセントを厄介な後輩だと思って先輩風吹かせてたし、フィンセントも素直に「これどう?」「これはどうしよう?」って感じだったのが最初なんだけど、自分は太陽でフィンセントを向日葵発言はその辺りのことを言ってるんだろうけど、だんだんと逆転してタヒチでは太陽は向日葵に焦がれていたように見える。追いかけているのはポールで、フィンセントこそが先を行っている。彼こそが芸術の女神に愛されていると、彼は悟ってしまった。
 しかし、それさえも後々にゴッホが大家になったことを知っていた私たちの先入観かもしれない。ポール・ゴーギャンは常にフィンセント・ファン・ゴッホを導いているつもりだったかもしれないし、ゴッホゴーギャンを追いかけているつもりだったかも知れない。それは誰にも分からないのだ。
 11年後のタヒチでポールはフィンセントとの約束を果たそうと向日葵を育てて絵を描くのは、どこまでも先に行ってしまった友人への手向けなんだろう。それはそれとして自分の女の不安はちゃんと解いとけちゃんと言えお前そういうとこだぞお前。
 

 テオ
 安田くんの言うようにフィンセントは往々にして『その天才性故に周囲の人を食い潰す』タイプで、その食い潰された筆頭は間違いなく弟のテオなんだけど、彼は彼でフィンセントにデカすぎる感情を抱いているし現状の芸術に不満もあるから、似た者兄弟。
 私は真っ先にテオに同情した。高い声、兄に対する遠慮がちな態度、恫喝されながらも兄を肯定する姿は憐れだし、あれだけ尽くしても実際のテオはフィンセントが認められた時代を知らずにフィンセントの死後半年程で、兄の後を追うように死ぬという史実も同情に拍車をかける。
 この壇上におけるテオもそんな男だった。四歳歳上の兄にどれだけ怒鳴られても彼は突きつけたリボルバーの引き鉄を引けない。兄を見捨てられない。哀れなまでの、呪いとさえ呼べる家族の情があった。この男ならば兄を最後まで、地獄の果てまで支えに行くだろう。そんな確信さえ得た。彼が怒りを見せたのはフィンセントが酒に溺れて堕落した時とフィンセントの絵がバカにされた時だ。感情的な過去篇の登場人物の中ではいっそ珍しく理性的。だからこそ最も観客からの同情と共感を集める役だと思う。
 でもなんというか、そもそものフィンセントの絵を売る気があったのか? とはちょっと思う。兄の芸術を独り占めしたかったのか……ただ、テオにとってフィンセントはヒーローだったのだろう。上の兄弟がいない私には理解し難い弟妹の感情。兄に対する刷り込みのような憧憬と執着心。
 兄は早過ぎる、先を行き過ぎるとテオは言うが、その言葉の裏に「でも僕には兄さんの絵が分かる」という優越感もあったのでは?
 あるいは孤高の天才を支える献身的な弟、という称号を甘美に思ったこともあるかもしれない。でもテオは間違いなく兄を支え抜いたし、テオが選んだ女性は彼の死後に於いても夫と義兄の為に義兄の画家としての認知度の布教に努めたんだから凄い。
 現代でも当時でも、とうに成人した兄弟を食いも出来ない画家として養うなんて甘いだろ、お互い自立しろよと言いたくなるけど無理ですね。夫婦にしろ親子にしろ兄弟にしろ、他人が口を挟めない関係はある。その関係性は最初のシーンできっちり伝わったのが凄い。
 星月夜を前にしての冴との掛け合い。冴の「フィンセント・ファン・ゴッホ!」に対して彼は「兄さん!」と叫ぶ。この天才は自分の兄だと知らしめるような声にゾッとしたのは深読みです。


 高遠冴
 現代パートの主人公にして探偵役。可愛い。原田マハの描く女性主人公ってキリッとした理知的な女性ってイメージが勝手にあったけど、良い意味でそうじゃない。北乃きいが持つ可愛らしい雰囲気がいい感じに作用していた。
 最初はリボルバーを胡散臭そうに見てた彼女が過去の立会人の一人になる。とはいっても、積極的に過去の人物に接触するのは基本的に彼女。物語の窓。
 原作ではサラの告白を受け継ぐ形で彼女一人が真相を聴くんだけど、舞台ではあまりにも生々しい人の人生に立ち会うので社長とJPがいて良かった。
 カテコでも歩き方が冴だったけど、スタオベの後はきいちゃんだった。可愛い…。
 

 ギロー社長
 彼がいなかったらこの舞台辛すぎるので居てくれてありがとう大賞。オークションのやり方がコミカルで軽快で楽しい。つい手を挙げたくなる。
 リボルバーも最初は「面白いブツ入った!」みたいなテンションなのにどんどんフィンセントとポール、テオの心情に入り込んでいく。観客の体現。
 ラストのオークションでこれまでに無い真剣な表情で競売を始めるのが印象的だった。価値とは何なのか考える時に、響くのは彼の声だ。
 

 JP
 彼がいなかったらこの舞台辛すぎるので居てくれてありがとう大賞受賞(二回目)。マジで社長同様に彼がいなかったら見てられないので、ありがたい存在。社長との掛け合いが面白いし冴とのやりとりも同僚って感じでいい。
 クロエの持ち込んだリボルバーは彼の中で価値を変えた。ただの錆びついた鉄屑から、運命を回転させる一品に、そしてフィンセント達との思い出に。これもまた、物の価値について考えさせられる。
 

 クロエ/ヴァエホ/ヨー
 三者三様の役柄。クロエは美術も創作者の苦悩も知らないごく普通のハイティーン。ヴァエホはゴーギャンの現地妻となった少女。ヨーは一瞬だけ登場するけど、ゴッホ兄弟にとって重要な女性、テオの妻。全く違う役なので、同じ人間が演じてる気がしない。
 クロエが何も知らないからこそ、冴たち三人はフィンセント達の人生の立会人になれたんだと思う。ラストに戸惑いながら立っていた彼女は本当に普通の一般人だった。
 ヴァエホとゴーギャンのやり取りも男と女の身勝手さとジェラシーの生々しさがあった。ひまわりを叩き折り、リボルバーゴーギャンに向けた彼女が幸せであってほしい。
 

 レイ医師/警官etc
 これもまた対照的な役柄。レイ医師は晩年におけるフィンセントの理解者の一人だったように思える(彼の娘の絵も残ってる)。フィンセントはとつとつと自分の人生の失敗を語るけど、レイ医師は「私はむしろ貴方に興味があります。この歳で全く新しいことに挑戦することは勇気がいることだ」と言う。月並みな言葉だけど、フィンセントは「初めて言われました」とレイ医師に心を開く。こんな月並みに言葉さえフィンセントはもらえなかったのかと悲しくなった。
 一方で警官はフィンセントに対して批判的。彼にとってフィンセントは友人と口喧嘩したくらいで耳を切り落として娼婦に送りつけた頭のおかしい犯罪者予備軍でしかない。何なら画家という職業さえ馬鹿にしてる気がするが…まぁこんな人も多いだろうし何なら普通かもしれない。ひまわりを「人の顔ですよ。それも狂ったね」と評してポールにフィンセントの絵は田舎のお巡りすら詩人にすると笑われる。芸術家に対する見方をそれぞれ提示した通りすがりの重要な人物だと思う。

リボルバー感想


 
 2021年7月11日。
 
 ジャニーズファンクラブの応募枠、私は外れたが母は当たった。東京公演二日目の一階席。相変わらず席運は良い。肉眼でも十二分に見える近さで初めて私たちは俳優・安田章大と合間見えた。
 
 時はまず現代。オークション会場から始まる。相島一之氏演じるギローの軽快で小気味良い語りに一気に客席は緩んだ。何だったら手を上げて、落札してみたい気にすらなる。メタ的なセリフもどこか可笑しい。
 オークションが終わり、やんやと喋るギローと細田義彦氏のJP。北乃きい嬢演じる高遠冴が紹介され、彼女の研究、ゴッホゴーギャンについて示唆された。
 さぁ、いよいよキーアイテムの登場だ。ところが舞台の端に立つのはタヒチの少女のような黒髪ロングと日焼けした肌をしたティーンエイジャー。原作では淑やかな老婦人だった筈だが……と一瞬疑問に思ったが何でも彼女は原作の依頼人であるサラの娘で、サラの遺言に則って冴にリボルバーを託しに来たらしい。
 このリボルバーゴッホの命を奪ったリボルバーだ。
 サラの娘、クロエはそう言った。母から娘へ受け継がれてきたリボルバーをオークションにかけて欲しいと。
 もし本当ならば、とギローははしゃいで、訝しむ冴に調査をするように指示する。
 
 軽快な現代パートと打って変わって過去パートは陰鬱な空気から始まる。
 正直、私は直前まで安田章大に会いに行くつもりだったが、舞台というのは往々にしてこういうものだと何度となく思い知らされる。私がどれだけ安田章大に会いたいと願っても、舞台にいるのはフィンセント・ファン・ゴッホだった。瓶から直接酒を煽り、弟に当たり散らすその姿はまるでご近所の兄弟喧嘩を見てしまったような居た堪れなさと創作者の痛痛さの共感生羞恥で身悶えた。
 あのフィンセント・ファン・ゴッホに共感するなんて烏滸がましいという気持ちはすぐに消え去った。舞台の上でのたうち回る彼は芸術史に名を残す大家でも悲劇の天才でも無いからだ。ただ等身大の、弟以外誰にも理解されずに足掻いていたフィンセントがそこにいた。
 テオは酔い潰れたフィンセントにリボルバーを向ける。しかし、向けるだけだ。引き鉄は弾けない。フィンセントは夢の中でもテオに「描けたぞ」と言うのだ。きっと子どもの頃から彼らはそうなのだ。
 創作をしたことがある人間なら誰でも思うだろ。認められたい、負けたくない、注目されたい、褒められたい。承認欲求と一言でまとめられるにはあまりにも綺麗すぎる感情を持て余したフィンセントはただ走るしかなかった。彼は壇上から捌けるときにひたすら走っていた。駆け抜けることしか出来なかったフィンセントを表すように安田章大は駆けていた。
 また、彼は全身で表現していた。ある時はポールに飛び付き、ある時はグラスを投げて怒鳴り散らした。ある時は頭を抱えて泣き崩れ、ある時は見栄を張って自分で払えもしないのに高い酒を頼んだ。余談だが、怒鳴り方がテオとフィンセントがよく似ていて謎の感動を覚えている。ゴーギャンに好き放題言われて拳を握って堪える仕草と「違う!」という張り裂けんばかりの叫びがとてもよく似た兄弟だった。震えるほどに兄弟だと感じた。
 子どものようなフィンセント。錯綜する過去と現代の狭間で彼は日本人の冴を見つけて、こう聞くのだ。
「日本は陽が沈まないのか?」
 この青年がフィンセントだとは知らない冴はあっさり答えた。
「沈みますよ」
 当たり前だ。日本だろうがパリだろうが太陽は昇って沈む。しかし浮世絵の光に焦がれた彼は裏切られたような顔をして、呆然とする。

 現代パートでも謎が解き明かされていく。クロエの持ってきた写真によって明らかになる彼女の家系とゴーギャンの関係。サラの目的、ゴッホが最期を過ごした部屋にゴッホのタブローを取り戻したいという願い。リボルバーはその資金源ではないか、という仮説を立てた三人は過去を見るのだ。
 
 この現代の三人が過去にいる演出が素晴らしい。現代パートの三人がいなければ、悲しすぎて見ていられない。
 この舞台中に至ってはフィンセントもテオもどうしようもなく悲しい人だった。観客席から飛び出せたなら私は彼の絵を買い占めて、テオの手を握り締めてフィンセント・ファン・ゴッホの時代は必ず来ると叫びたかった。泣き崩れるフィンセントを抱き締めて、君の芸術は必ず理解され、世界中が君の絵を愛する時が来ると言いたくなった。それほどにフィンセントもテオもポールも身近にあった。彼らは遠い国の過去の人ではなくなった。目の前で苦しんでいる隣人であり愛すべき友人だった。だから、フィンセントの孤独を見ていられなかった。何故、彼が生きている間に一人しか買ってやらなかったと何度も叫びたくなった。
 しかし、史実は変わらない。フィンセントの絵は売れず、ポールとの生活はどんどん溝が深まっていく。
 ポールはテオからの支援を目当てにフィンセントと暮らしたが、フィンセントの貪欲な創作についていけず、また彼の苛烈さにうんざりする。フィンセントはフィンセントで、ポールに何故もっと描かないのだと不満を抱く。私が思ったのと全く同じタイミングで「倦怠期の夫婦か!」とフィンセントが叫んだので笑ってしまった。
 しかしまぁ、どんどん笑えなくなっていく。フィンセントが帽子に蝋燭つけてきた時は今から藁人形でも打ちに行くのか? と思った。ポールにひまわりを描いてくれと迫る彼は鬼火のようだった。限界だったのだろう、どちらも。ひまわりを描いて欲しい、という切実な願いは呪いのように聞こえた。
 張り詰めた糸はプツンと切れる。二人は口論の末にポールは出て行ってしまう。ポールは最後に当て擦りでテオが婚約したことをフィンセントに言ってしまう。弟と友人から見放されたと絶望したフィンセントはポールを追いかけてナイフを向けるが、同時にあのリボルバーを突きつけられる。ポールは言う。このリボルバーは君の最愛の弟の物だ、と。嘲るように笑って去っていく友を引き留められず、フィンセントは自分の耳を切り落とした。
 耳切事件の後、フィンセントはあの肖像画と同じ風貌で車椅子に座り、パイプを蒸した。煙草独特の焦げ臭さが客席に届く。光の無い目、痩せた身体が本当に病人めいていた。耳を切った後のことを覚えているかと医師に訊かれた彼は、段々と意識が無い間に彼の病室で起こったことを語りだす。
 テオは兄に縋って啜り泣き、ポールは痛ましげにその肩を撫でた。フィンセント自身は静かにベッドに横たわっている。そんな彼らの下に警官が来て、事件の概要と共にフィンセントを周囲がどう思っているかを突きつける。
 頭のおかしい画家が頭のおかしい絵を描いている。あの『ひまわり』は花ではない、気の狂った人間の顔だ。
 そんな警官の嘲笑にテオは激昂し、ポールは笑った。
 ポールは朗々と語る。あれは完璧な花であり、同時にフィンセント・ファン・ゴッホそのものだ。誰が何と言おうと傑作だ。
 そんなポールを見て、フィンセントは車椅子から立ち上がり、ふらふらとポールの方へ歩き出す。幽霊のような足取りで。
 フィンセント個人を家族としてテオが救い、画家としてのフィンセントをポールが救った。それで十分報われた、と思ったのかもしれない。冴が「フィンセント!」と叫んでも現代の人間である彼女の声はフィンセントの運命を止められない。彼は鉄格子の嵌められた部屋で入院した。
 とはいえ、施設療養となってもフィンセントは創作を止めない。止められないのだ。アルル時代と同じペースで、より完成度を上げて送られてくる絵。ポールが見たくないと拒否したその絵は誰もが知っている糸杉、星月夜。観客には見えないその絵をテオと冴が詩的な言葉で表現する。原田マハは極めて理知的な文章を描くが、美術作品の描写においては美しく詩的だ。現代の研究者と当時の唯一の理解者に語られて、まざまざと浮かび上がるあの絵をみんな知っているのに、あの時代の人々はテオ以外誰も知らないのだ。そのギャップが面白くもあり、悲しくもある。
 ポールは逃げるようにタヒチに行く。そこで少女と暮らし、絵を描く。快楽の家と呼んだその場所で彼はフィンセントから手紙を受け取る。まるで死を連想させるような文面にポールはパリへ戻り、オーヴェールにいるフィンセントに会うのだけれどフィンセントはもうポールに飛びついて喜んだりはしない。それどころか「テオに言われて来たんだろ?」と自虐的でさえある。ポールが自発的に自分に逢いに来たとは考えてもいないのだ。
 フィンセントは告白する。テオの独立に反対した時のことを。兄として家族を持った弟に安定した仕事を捨てるな、なんて口先ですらも彼はいえなかった。弟の収入が無ければ絵の具もカンバスも買えないのだ、と言ってしまったのだ。弟の妻と生まれて間もない、自身と同じ名前を付けられた赤ん坊を前にして。
 『弟は哀れな馬車馬だ。僕はその荷台に載った役立たずのお荷物だったんだ』
 可哀想なフィンセントは狂っていられれば良かったのに、彼はおそらくずうっと正気だった。だからこそ彼は自分が嫌いだったのだろうと思う。愛する弟を食い潰す自分が、尊敬する友人を追い詰める自分が、何よりも嫌いだったのだろう。タブローしか無い自分が、何よりも憎かったのだろう。
 『タブロー! この胸にはタブローしか無いんだ!』
 テオもポールも棲んでいない、タブローしか無い自分を、ゴーギャンの言うところの“タブローの国の王様”である自分を最も疎んじていたのはフィンセントだったのではないか。
 そんなフィンセントにポールはリボルバーを取り出す。しかし、今度は自分自身にリボルバーを向けるのだ。銃弾の入っていないリボルバーをこめかみに当てて、ポールは「俺は先に行く」と言う。彼なりにフィンセントに発破をかけているのだが、フィンセントは慌ててその銃を奪おうと飛びかかる。揉み合い、銃声が轟いた。
 銃弾は入っていたのだ。一発だけ。
 テオのリボルバーをポールに贈るようにテオに頼んだのはフィンセントだった。彼は自分のことをよくよく知っていたのだ。ポールと自分は行き先が違うのに、それでもポールが離れる時に絶望した自分が何をしでかすか分からないことを。ポールは撃たないと分かっていて、テオにリボルバーを贈らせた。一発だけ弾を込めたリボルバーを。
 フィンセントは晴れやかにさえ見える顔でポールに抱えられながら旅立つ。ポールの慟哭と啜り泣きの中で、冴とギローとJPはリボルバーのオークションを始めるのだ。
『この物語を信じるか信じないかはあなた次第です』
 確かに、原田マハの物語はそういうものだ。史実を基にしたフィクションでありながら、どこまでがフィクションなのか分からなくなる。もしかしたら、彼女の描いた通りなのかもしれないと思わせるのが原田マハの真骨頂だ。
 原作ではオークションは行われない。しかし、舞台では行われる。この差異が素晴らしい。役者陣の生きた芝居の生々しさは小説のように冴一人の胸に収めておくには重たすぎた。
 エンディングにて、三人はどんどん動きをスローモーションにしていく。一方で舞台奥にはテオとフィンセントとポールが霧がかったひまわり畑の中へと消えていくのだ。
 
 いやはや、凄いものを観た。
 相変わらず何度目かの舞台だが、拍手を始めるタイミングとスタンディングオベーションするタイミングが分からない。
 三回目のカーテンコールでやっと皆立ち上がった。その瞬間、安田くんの瞳がパァッと輝いた。
 その日初めて、私はようやくフィンセントではなく安田くんに会えたと思った。同時にこれこそが舞台に来る意味だ、とも。
 私達観客が与えられるもの。チケット代だとか、来たという事実とか、それだけでは無かったんだ。感動をくれた彼らに何かを返せているんだ。
 そんな幸せな実感をくれた舞台だった。
 ありがとう。できれば当日券取ってまた観に行きたい。
  

マシーン日記感想

はしがき


こんな殴り書きみたいな感想を共有するのはいかがなものかと思いましたが、ネットの海は広大なので小瓶の一つくらい流してもいいかな〜というか全然ブログ書いてないな〜という気持ちで投稿します。

帰りの新幹線の中で打ち込んだものをほとんどそのまま使っているので、違和感があったりもしますが直後の感想なのでそれも味ということで、ご容赦ください。

 

 


キャラクターにそれぞれ


ミチオくん

人生のほぼ全てを兄貴のお人形さんとして過ごしている年季の入った支配される側。

コーラとコーンフレークを摂取する際のクセがスゴい程度で四人の中では一番常識と倫理を持ち合わせてるし、一般的な感性(サチコの傷にショックを受けたりする)のままなのだが、カカシさんらしく脳味噌が無いので逃げる気力は無いし牙は抜かれてるし支配関係に慣らされすぎてセックス以外のコミュニケーションツールが無い。

鎖を言い訳にする前にも彼は何かを言い訳にして停滞し続けていたんだろうね。心理学でいうところの学習性無気力とか服従実験とか思い出した。周囲に馴染めず浮いてるミチオくんは兄貴に支配されて安心してる。離れたいけど離れられない。モラトリアムから抜け出せない。そして他の家のダメな事情を盗聴して自分だけがクズじゃない、自分だけがダメなんじゃないと安心して悦に浸る。

兄貴にキーボードぶん回した時にそのまま支配から逃げれば良いものを、結局兄貴の支配という共依存から抜けられず、似た者だったサチコは死んじゃうしミチオくんのせいで町は燃える。最後の最後に手にしたマトモな人間になれるチャンスを見事にふいにして、鎖も片足も無くして何処にも行けなくなっちゃった。

三号機がいても支配者が兄貴の他に増えただけで彼自身は何も変われてないのである。多分火事の後も社会人にはなれないし背広は着れないけど、君が君である限り首は折られないんじゃない?

今度家にある心理学の教科書からアダルトチルドレンの項を探してミチオくんと重ねて考察してみたいです。

 

 

 

アキトシ

躁鬱メンタルのフィジカルタフネス。絵に描いたような裸の王様。機嫌が良いと弟を「ミチ」なんて呼ぶ。首尾良く可愛いお人形(ミチオくん)とペット(サチコ)を手元に置くことに成功したので大変楽しそう。ここに大卒のケイコを加えられると踏んでいたが、残念ながら無理だったね。

弟とは年季の入った支配関係を築いている。支配と被支配、血縁。自分より優れた(健常者の)弟を兄という理由だけで支配しているもんだから兄であることを強調するし、常にマウント取る。

コンプレックスからひたすら逃げ続けているので自分に勇気が無いことすら気付いておらず、獅子として持ち合わせていた爪や牙(身体的優位性)でひたすら兎ちゃん達をいじめ抜くのが彼の人生。さぞや楽しいだろうね。虚しくて痛々しいよ。そりゃあ弟も「しっかりしてくれよ!」って泣く。

ただ彼は彼の中で彼なりに弟のこともサチコのことも愛してた。だから繋いだし結婚したし順番を入れ替えた。燃やそうとしたのは、家族のまんま終われば永遠になると思ったからなのかもしれない。

最後にどんな感情で妻を抱き締めたのか。お気に入りのペットが死んだ悲しみか。それとも愛し方にようやく気付いたのか。でも死体を抱き締めても意味無いから、全部遅かったね。

今後どうなるか考えてみたが、何せ弟という奴隷さえいれば支配者としてのアイデンティティも保たれるし弟も片足失くして自分と同じ足らない人間になってやったね! な気分もあるかもしれない。でも弟が殺人教唆とかでガチの囚人になったらすぐに鬱期になって死にそう(私見です)

 

 

サチコちゃん

ヒロイン志望だが電波ゆんゆんな筋金入りのいじめられっ子。いじめられっ子のハイブリッド。

ずっと痛々しいまんまで死んだ。強者にはいつだって媚びるし優位に立った瞬間めちゃくちゃ調子に乗る。承認欲求が強めなのでDVも度が過ぎなければヒロイックな要素として酔える。気が狂ってる分、三人での暮らしも楽しかっただろうけどターミネーターと男の趣味が被ったのが運の尽きだった。敵を倒して愛する男も助けて万々歳! 私の物語はこれからだ! とセルフ主人公ムーブをかますが過去からやってきたターミネーターに返り討ちにされる。

セックスばかりするミチオに唯一キスしたのは彼女だけだった。同族嫌悪と上から目線と憎悪と依存でめちゃくちゃだけど、ほんの一滴だけ恋というものがあった象徴に思える。

ドロシーになりたかったけど、残念ながら彼女がドロシーだったら銀の靴どころか家が吹っ飛んだ時点で喚き散らして歩こうとはせず、良い魔法使いの下へ辿り着けないので物語は始まらない。彼女が主人公になれた瞬間は、やっぱり死後に兄貴に抱き締められた時だと思う。死んで、ようやくヒロインになれたね全部遅かったけど。

仮にもし、火事の後にみんな捕まらず日常に戻ったとしてもサチコちゃんのことは「あそこの奥さん、とうとう逃げちゃったらしいわよ」とかヒソヒソされて忘れ去られていくのかと思うと涙が出てきます。

 

 

 

ケイコ

個人的に一番よく分からん人。クローズドを見事にぶっ壊したディープインパクトにして破壊神。手から何か出る。

嘘はつかないし疑問は解消されないと気が済まない。とにかく何でも白黒つけたいので、マイナスしかないミチオくんのマシーンになるが、ミチオくんは奴隷根性が染み付いてる上に暴力に酔うタイプでは無かったのでセックスという手段に落ち着いた。何考えてるのか全然分からないけど、ミチオくんの為なら人の家を燃やすし教え子も殺す。人間的な感情は苦手なので心を欲しないタイプのブリキの木こり。というか、布で出来た心臓なんか与えられても「これじゃあ心臓として使えない」って投げ捨てるタイプ。

このパーティーの中で唯一オズの魔法使いの居場所を知っていたのに、ブリキのままでいることを選んだので全員沈んじゃいました! 残念だね。

私にとっては一番理解できない人なんだけど、私は人間ってのはブレる生き物だと思ってるので(ケイコの言葉を借りるなら十を三で割るような)ケイコがマシーンになろうとしているところやレトリックを使わず一貫してブレないところが苦手なんだな。

ただ彼女の大根さん曰く歪んだ母性みたいなものは確かに分かる。ミチオの三号機であり、ミチオを助ける存在であり、兄貴という支配者に依存していたミチオがようやく見つけた銀の靴だったんだけど、片方しか履けないからダメですね。

 

はじめまして(または、私がeighterになった経緯)

 

 

はじめまして。eighter歴2年目に突入しました、かがみです。

 

社会人になる少し前に横山裕さんに心を奪われてeighterになった私ですが、今回はてブロにも手を広げようとしてエントリーしました。どうぞよろしく。

 

 

さてはて、初投稿。何を書こうかというと、自己紹介も兼ねて私がeighterに、横山担になった経緯でも軽く一つ語ろうと思います。

 

それでは聞いてください。『全部山内徹とジャニオタのせい』

 

 

2018年7月。私はあるドラマに出逢いました。そう『絶対零度』です。

当時の私は大学院受験を控えており、夏休みはアルバイトを減らしてひたすら勉強の日々でした。その中でドラマを観る事はささやかな自分へのご褒美でした。

 

さて、この絶対零度、見始めたのは私の父。というのも父は第一シーズンから視聴していましたので、主演が変わったとはいえ録画予約をしていました。私はというと前のシーズンを知りませんでしたが、

 

沢村一樹主演ならつまらんって事は無いだろうし、設定も近未来的で面白いな。あっ、ヨコいるじゃん。前の刑事役(ON・東海林泰久役)も良かったから信頼できるわ」

 

という思考で見始めました。そしてハマりました。

山内徹はやべぇ(やべぇ)

 

 

しかしながら当時の私は受験を控えた身。しかも何故かアイドルやジャニーズに対して気遅れすら感じていました。いえ、タレント本人ではなくファンに対しての気遅れです。

 

だってあの人達やべぇんだもん。バイタリティ半端ねぇもん。

 

私は二次オタ。それも紙媒体を楽しむタイプのオタクです。良くも悪くもマイペースでインドアな私にとってジャニオタの行動力は真似できないと畏怖していました。私の周囲のジャニオタだけ? 

そんな事ないよな。ないよな!?

 

まぁ、でもハマったのは仕方がありません……と言いながら抵抗していました。アイドルとしての横山裕さんを知る事を避けました。役者仕事だけ応援しようとコスい考えを持っていたのです。だからヒルナンデスも観ませんし関ジャニ∞のことも避けました。

 

だって実在する人間に本気で傾倒したら、傷付くのが目に見えている。

人は変わる。人は間違う。人は死ぬ。

人は生きてるから思い通りになんてならない。

アニメのキャラクターや漫画の登場人物は極端に人格が変化しないし、したとしてもそれはそれで楽しいし、楽しめなかったら別の作品へ行けばいいのです。私はそういうスタンスを取ってきました。

でも生きてる人間だと話も違います。他人の人生の選択に一喜一憂する事が私にはとんでもなく恐ろしかったのです。

だから、ちょっとお気に入りの芸能人って思っておくくらいが良い。そう思っていました。

 

まぁ、そうは問屋が下ろしません。

何故なら私の周囲にはジャニオタが複数存在していました。奴らはやべぇ(サビ)

興味があると聞きつけたなら、彼女たちはたんとCDもDVDも貸してくれました。

ネットで知り合ったeighterさんは私の興味がありそうな雑誌記事を見せてくれたりもしました。

やべぇ、こいつはやべぇ。どう逃げる。逃げられない!(pkmn風)

 

結果、私は友人に借りたパッチでeight沼に沈み込み、晴れて横山担となったのです。

 

そして2019年3月。十五祭と北斎漫畫が発表されました。どうしたものか。受験失敗した2月末まで就職が決まってなかった私は貯金がほぼゼロ。FC入会は初任給でと決めていましたが、これでは間に合いません。

どうしようかと悩んでいたときに背中を押してくれたのは、やはり友人でした。

 

『マジレスすると手続きしてないのが金だけが理由なら今すぐやった方がいい、入ろうとは思ってるのに入会しなかったこの期間を絶対後悔する』

 

翌日、私は関ジャニ∞のFCに入会しました。オタクにとって必要なのは瞬発力と行動力。

 

迎えた初めてのチケ戦。北斎は外れたけど一般とTwitterで繋がったeighterさんに連れて行ってもらったし、十五祭はアリーナ三列目が当たりました!!!!(拍手)

 

9月2日。人生で一番楽しい瞬間でした。銀テも取った(人生のサビ)

 

そして9月5日。誰のことも嫌いになれず、声を上げて泣きました。

この人たちが選んだことなら、最後には笑える未来があると信じることにしました。

 

永遠も絶対も無いけれど、同じ時代を生きている奇跡は有りました。

 

今幸せです。eighterで幸せです。横山担で幸せです。

関ジャニ∞はeighterを愛してくれているという実感こそが、支えで誇りです。

本当にありがとうございます。

 

 

 

ps.

先日、遊びに行けないのに仕事はあるのが辛すぎてサボテンを買いました。山内くんロスの皆さま、サボテンライフはいかがですか? ボーイちゃんに黒Tを用意すればますます臨場感をお楽しみ頂けるかと思います。

こんなご時世ですが、よきお家時間とオタクライフを!