鏡のひとりごと

黒担eighterの気の狂った叙情文

リボルバー感想


 
 2021年7月11日。
 
 ジャニーズファンクラブの応募枠、私は外れたが母は当たった。東京公演二日目の一階席。相変わらず席運は良い。肉眼でも十二分に見える近さで初めて私たちは俳優・安田章大と合間見えた。
 
 時はまず現代。オークション会場から始まる。相島一之氏演じるギローの軽快で小気味良い語りに一気に客席は緩んだ。何だったら手を上げて、落札してみたい気にすらなる。メタ的なセリフもどこか可笑しい。
 オークションが終わり、やんやと喋るギローと細田義彦氏のJP。北乃きい嬢演じる高遠冴が紹介され、彼女の研究、ゴッホゴーギャンについて示唆された。
 さぁ、いよいよキーアイテムの登場だ。ところが舞台の端に立つのはタヒチの少女のような黒髪ロングと日焼けした肌をしたティーンエイジャー。原作では淑やかな老婦人だった筈だが……と一瞬疑問に思ったが何でも彼女は原作の依頼人であるサラの娘で、サラの遺言に則って冴にリボルバーを託しに来たらしい。
 このリボルバーゴッホの命を奪ったリボルバーだ。
 サラの娘、クロエはそう言った。母から娘へ受け継がれてきたリボルバーをオークションにかけて欲しいと。
 もし本当ならば、とギローははしゃいで、訝しむ冴に調査をするように指示する。
 
 軽快な現代パートと打って変わって過去パートは陰鬱な空気から始まる。
 正直、私は直前まで安田章大に会いに行くつもりだったが、舞台というのは往々にしてこういうものだと何度となく思い知らされる。私がどれだけ安田章大に会いたいと願っても、舞台にいるのはフィンセント・ファン・ゴッホだった。瓶から直接酒を煽り、弟に当たり散らすその姿はまるでご近所の兄弟喧嘩を見てしまったような居た堪れなさと創作者の痛痛さの共感生羞恥で身悶えた。
 あのフィンセント・ファン・ゴッホに共感するなんて烏滸がましいという気持ちはすぐに消え去った。舞台の上でのたうち回る彼は芸術史に名を残す大家でも悲劇の天才でも無いからだ。ただ等身大の、弟以外誰にも理解されずに足掻いていたフィンセントがそこにいた。
 テオは酔い潰れたフィンセントにリボルバーを向ける。しかし、向けるだけだ。引き鉄は弾けない。フィンセントは夢の中でもテオに「描けたぞ」と言うのだ。きっと子どもの頃から彼らはそうなのだ。
 創作をしたことがある人間なら誰でも思うだろ。認められたい、負けたくない、注目されたい、褒められたい。承認欲求と一言でまとめられるにはあまりにも綺麗すぎる感情を持て余したフィンセントはただ走るしかなかった。彼は壇上から捌けるときにひたすら走っていた。駆け抜けることしか出来なかったフィンセントを表すように安田章大は駆けていた。
 また、彼は全身で表現していた。ある時はポールに飛び付き、ある時はグラスを投げて怒鳴り散らした。ある時は頭を抱えて泣き崩れ、ある時は見栄を張って自分で払えもしないのに高い酒を頼んだ。余談だが、怒鳴り方がテオとフィンセントがよく似ていて謎の感動を覚えている。ゴーギャンに好き放題言われて拳を握って堪える仕草と「違う!」という張り裂けんばかりの叫びがとてもよく似た兄弟だった。震えるほどに兄弟だと感じた。
 子どものようなフィンセント。錯綜する過去と現代の狭間で彼は日本人の冴を見つけて、こう聞くのだ。
「日本は陽が沈まないのか?」
 この青年がフィンセントだとは知らない冴はあっさり答えた。
「沈みますよ」
 当たり前だ。日本だろうがパリだろうが太陽は昇って沈む。しかし浮世絵の光に焦がれた彼は裏切られたような顔をして、呆然とする。

 現代パートでも謎が解き明かされていく。クロエの持ってきた写真によって明らかになる彼女の家系とゴーギャンの関係。サラの目的、ゴッホが最期を過ごした部屋にゴッホのタブローを取り戻したいという願い。リボルバーはその資金源ではないか、という仮説を立てた三人は過去を見るのだ。
 
 この現代の三人が過去にいる演出が素晴らしい。現代パートの三人がいなければ、悲しすぎて見ていられない。
 この舞台中に至ってはフィンセントもテオもどうしようもなく悲しい人だった。観客席から飛び出せたなら私は彼の絵を買い占めて、テオの手を握り締めてフィンセント・ファン・ゴッホの時代は必ず来ると叫びたかった。泣き崩れるフィンセントを抱き締めて、君の芸術は必ず理解され、世界中が君の絵を愛する時が来ると言いたくなった。それほどにフィンセントもテオもポールも身近にあった。彼らは遠い国の過去の人ではなくなった。目の前で苦しんでいる隣人であり愛すべき友人だった。だから、フィンセントの孤独を見ていられなかった。何故、彼が生きている間に一人しか買ってやらなかったと何度も叫びたくなった。
 しかし、史実は変わらない。フィンセントの絵は売れず、ポールとの生活はどんどん溝が深まっていく。
 ポールはテオからの支援を目当てにフィンセントと暮らしたが、フィンセントの貪欲な創作についていけず、また彼の苛烈さにうんざりする。フィンセントはフィンセントで、ポールに何故もっと描かないのだと不満を抱く。私が思ったのと全く同じタイミングで「倦怠期の夫婦か!」とフィンセントが叫んだので笑ってしまった。
 しかしまぁ、どんどん笑えなくなっていく。フィンセントが帽子に蝋燭つけてきた時は今から藁人形でも打ちに行くのか? と思った。ポールにひまわりを描いてくれと迫る彼は鬼火のようだった。限界だったのだろう、どちらも。ひまわりを描いて欲しい、という切実な願いは呪いのように聞こえた。
 張り詰めた糸はプツンと切れる。二人は口論の末にポールは出て行ってしまう。ポールは最後に当て擦りでテオが婚約したことをフィンセントに言ってしまう。弟と友人から見放されたと絶望したフィンセントはポールを追いかけてナイフを向けるが、同時にあのリボルバーを突きつけられる。ポールは言う。このリボルバーは君の最愛の弟の物だ、と。嘲るように笑って去っていく友を引き留められず、フィンセントは自分の耳を切り落とした。
 耳切事件の後、フィンセントはあの肖像画と同じ風貌で車椅子に座り、パイプを蒸した。煙草独特の焦げ臭さが客席に届く。光の無い目、痩せた身体が本当に病人めいていた。耳を切った後のことを覚えているかと医師に訊かれた彼は、段々と意識が無い間に彼の病室で起こったことを語りだす。
 テオは兄に縋って啜り泣き、ポールは痛ましげにその肩を撫でた。フィンセント自身は静かにベッドに横たわっている。そんな彼らの下に警官が来て、事件の概要と共にフィンセントを周囲がどう思っているかを突きつける。
 頭のおかしい画家が頭のおかしい絵を描いている。あの『ひまわり』は花ではない、気の狂った人間の顔だ。
 そんな警官の嘲笑にテオは激昂し、ポールは笑った。
 ポールは朗々と語る。あれは完璧な花であり、同時にフィンセント・ファン・ゴッホそのものだ。誰が何と言おうと傑作だ。
 そんなポールを見て、フィンセントは車椅子から立ち上がり、ふらふらとポールの方へ歩き出す。幽霊のような足取りで。
 フィンセント個人を家族としてテオが救い、画家としてのフィンセントをポールが救った。それで十分報われた、と思ったのかもしれない。冴が「フィンセント!」と叫んでも現代の人間である彼女の声はフィンセントの運命を止められない。彼は鉄格子の嵌められた部屋で入院した。
 とはいえ、施設療養となってもフィンセントは創作を止めない。止められないのだ。アルル時代と同じペースで、より完成度を上げて送られてくる絵。ポールが見たくないと拒否したその絵は誰もが知っている糸杉、星月夜。観客には見えないその絵をテオと冴が詩的な言葉で表現する。原田マハは極めて理知的な文章を描くが、美術作品の描写においては美しく詩的だ。現代の研究者と当時の唯一の理解者に語られて、まざまざと浮かび上がるあの絵をみんな知っているのに、あの時代の人々はテオ以外誰も知らないのだ。そのギャップが面白くもあり、悲しくもある。
 ポールは逃げるようにタヒチに行く。そこで少女と暮らし、絵を描く。快楽の家と呼んだその場所で彼はフィンセントから手紙を受け取る。まるで死を連想させるような文面にポールはパリへ戻り、オーヴェールにいるフィンセントに会うのだけれどフィンセントはもうポールに飛びついて喜んだりはしない。それどころか「テオに言われて来たんだろ?」と自虐的でさえある。ポールが自発的に自分に逢いに来たとは考えてもいないのだ。
 フィンセントは告白する。テオの独立に反対した時のことを。兄として家族を持った弟に安定した仕事を捨てるな、なんて口先ですらも彼はいえなかった。弟の収入が無ければ絵の具もカンバスも買えないのだ、と言ってしまったのだ。弟の妻と生まれて間もない、自身と同じ名前を付けられた赤ん坊を前にして。
 『弟は哀れな馬車馬だ。僕はその荷台に載った役立たずのお荷物だったんだ』
 可哀想なフィンセントは狂っていられれば良かったのに、彼はおそらくずうっと正気だった。だからこそ彼は自分が嫌いだったのだろうと思う。愛する弟を食い潰す自分が、尊敬する友人を追い詰める自分が、何よりも嫌いだったのだろう。タブローしか無い自分が、何よりも憎かったのだろう。
 『タブロー! この胸にはタブローしか無いんだ!』
 テオもポールも棲んでいない、タブローしか無い自分を、ゴーギャンの言うところの“タブローの国の王様”である自分を最も疎んじていたのはフィンセントだったのではないか。
 そんなフィンセントにポールはリボルバーを取り出す。しかし、今度は自分自身にリボルバーを向けるのだ。銃弾の入っていないリボルバーをこめかみに当てて、ポールは「俺は先に行く」と言う。彼なりにフィンセントに発破をかけているのだが、フィンセントは慌ててその銃を奪おうと飛びかかる。揉み合い、銃声が轟いた。
 銃弾は入っていたのだ。一発だけ。
 テオのリボルバーをポールに贈るようにテオに頼んだのはフィンセントだった。彼は自分のことをよくよく知っていたのだ。ポールと自分は行き先が違うのに、それでもポールが離れる時に絶望した自分が何をしでかすか分からないことを。ポールは撃たないと分かっていて、テオにリボルバーを贈らせた。一発だけ弾を込めたリボルバーを。
 フィンセントは晴れやかにさえ見える顔でポールに抱えられながら旅立つ。ポールの慟哭と啜り泣きの中で、冴とギローとJPはリボルバーのオークションを始めるのだ。
『この物語を信じるか信じないかはあなた次第です』
 確かに、原田マハの物語はそういうものだ。史実を基にしたフィクションでありながら、どこまでがフィクションなのか分からなくなる。もしかしたら、彼女の描いた通りなのかもしれないと思わせるのが原田マハの真骨頂だ。
 原作ではオークションは行われない。しかし、舞台では行われる。この差異が素晴らしい。役者陣の生きた芝居の生々しさは小説のように冴一人の胸に収めておくには重たすぎた。
 エンディングにて、三人はどんどん動きをスローモーションにしていく。一方で舞台奥にはテオとフィンセントとポールが霧がかったひまわり畑の中へと消えていくのだ。
 
 いやはや、凄いものを観た。
 相変わらず何度目かの舞台だが、拍手を始めるタイミングとスタンディングオベーションするタイミングが分からない。
 三回目のカーテンコールでやっと皆立ち上がった。その瞬間、安田くんの瞳がパァッと輝いた。
 その日初めて、私はようやくフィンセントではなく安田くんに会えたと思った。同時にこれこそが舞台に来る意味だ、とも。
 私達観客が与えられるもの。チケット代だとか、来たという事実とか、それだけでは無かったんだ。感動をくれた彼らに何かを返せているんだ。
 そんな幸せな実感をくれた舞台だった。
 ありがとう。できれば当日券取ってまた観に行きたい。